実は港区にある品川駅、品川区に建てなかった理由を聞くと… 港区と品川区で意見がバチバチに交錯
実は品川区でなく、港区にある品川駅。その理由を、港区は「品川住民の反対に遭った」と説明するが、品川区は「歴史的裏付けはない」と主張。

悪天候や災害が都内を襲い、帰宅困難者が大量発生した際、よくニュースに映し出されるのが品川駅の様子。品川を「サラリーマンの街」と認識している人も多いのでは。
今回、じつは品川駅の名前に潜んだ大きな矛盾に、大半の人が気づいていないと判明したのだ。
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■品川駅、じつは品川区になかった

新宿駅は新宿区内にあり、渋谷駅が渋谷区内にあるのは周知の通り。しかし、品川駅は品川区でなく、港区に存在するのをご存知だろうか。
以前、Sirabee編集部が全国の10~60代の男女672名を対象としたアンケートにて、こちらの事実について調査を行ったところ、75.3%もの人が「品川駅は品川区にあると思う」と回答したことが判明している。

また、目黒駅も目黒区でなく品川区に存在するため、この手の話題で品川駅と目黒駅の名前は「ひっかけ問題」として機能してしまうのだ。
果たしてなぜ、品川駅は品川区内に建設されなかったのだろうか。今回はその歴史的背景をめぐり、港区に詳しい話を聞いてみることに。
■様々な要因が重なり、品川での建設を断念

今回の取材を快諾してくれた「港区立郷土歴史館」の担当者は、品川駅が港区内に存在する経緯について、3つの理由を挙げる。
まず1つ目が、住民の反対。これは鉄道建設におけるメジャーな反応で、「目黒駅が品川区にある」理由を品川区に尋ねたところ、「目黒住民からの反対に遭ったため」という回答が得られている(目黒区は「反対運動の根拠は見つかっていない」と主張)。
当時の様子について、郷土歴史館の担当者は「鉄道という高速な交通機関ができれば品川に宿場は必要ではなくなるという理由で、品川宿および宿場を生活の基盤とする人々が反対運動を起こしました」と、説明している。

品川宿と言えば、東海道五十三次の宿場のひとつで、江戸の玄関口として賑わった「江戸四宿」の一角。そんな歴史ある宿場に、「近代技術」による「高速」の交通機関が作られるとなると、住民らは不安を覚えたことだろう。

そして2つ目が、兵部省(陸軍)の反対である。
この詳細について、担当者は「当初、田町の薩摩藩邸から品川停留所に至る間は市街地を通る予定でしたが、兵部省の反対と妨害があったため、海上を埋め立てて線路を敷設することになりました。兵部省の建物が品川八ツ山下にあり、用地の引き渡しを拒んだだけでなく、測量の妨害なども行ったと言います。そのため海上を埋め立てて築堤を作り、線路を通しました」と、説明している。
そして、当時の政府は政府は鉄道敷設を急ぐ必要があった、というのが3つ目の理由。

担当者は「民家や邸宅を取り払い、官民の反抗を招くよりは、海岸埋め立てて線路を敷設しようと考えたようです。その結果、品川駅は市街地内ではなく、八ツ山手前の海岸に設置することになりました」と、説明している。

当初の品川駅は東は海、西は台地(八ツ山)に挟まれ、南は品川宿に面していたが、1896年(明治29年)に駅構内の拡張に伴い、ほぼ現在の場所に移転したことが判明。

移転の理由に関する明確な資料は無いようだが、担当者は「恐らく、地形的に駅舎や線路の拡張・拡幅のしにくい場所にあるため、移転したと考えられます。1876年(明治9年)に線路の複線化(新橋・品川間)し、1899年(明治32年)に日本鉄道品川線の列車を品川から新橋に乗り入れをさせるため3線化しました。そして1909年(明治42年)、品川・田町間の4線化と品川操車場建設のための埋め立てが始まるなど、複線化や東京府内の鉄道路線の拡張を見据えて移転したのではないかと推測します」と、分析していた。
こうした歴史的背景を理解するには、一方の視点だけでは不十分。そこで続いては「品川住民の反対運動」の詳細について、品川区に話を聞いてみることに。すると、同区からは意外な回答が得られたのだ。




