三浦瑠麗は「国際政治学者」か? 私がこの肩書に違和感を覚えた理由
【舛添要一『国際政治の表と裏』】騒動の渦中にいる三浦瑠麗。コメンテーターとしてTVで世間話を繰り返すのが「国際政治学者」の在り方ではない。
■夫の事業の広告塔
この事件の後、三浦瑠麗は、テレビ出演もなくなり、評価が下がってきている。私は、同じ「国際政治学者」であるだけに、何か自分まで叱られているような気分になってしまう。
夫婦であっても、夫と妻は別人格であり、夫の共犯者ででもないかぎり、テレビから干されるのは筋が立たない。しかし、夫の事業の広告塔の役割をしていたと見なされるような言動もあったようだ。
■権力に接近し、権力も三浦を利用する悪循環
しかし、三浦にとっては不幸なこの事件がなくても、彼女には「国際政治学者」という肩書きでテレビ番組には出てほしくなかった。
私には何故彼女がテレビなどのマスコミでチヤホヤされるのか皆目見当が付かなかった。それは、国際政治に関わるテーマについて、彼女が的確な解説をしているところを見たことがないからである。
女性であるだけに利用価値があるのか、自民党が「国際政治・外交論文コンテスト」で総裁賞を与えたり(2004年)、防衛庁・自衛隊が「安全保障に関する懸賞論文」コンテストで優秀賞を出したり(2006年)、自民党の機関紙的色彩の濃いフジサンケイグループが「正論新風賞」を授与したり(2017年)しているのはよく分かる。しかし、公平であるべきテレビ局までも彼女に肩入れするというのは不可解である。
そもそも一政党が主催するような論文コンテストに、まともな学者なら応募するわけがない。彼女が権力に近づき、権力の庇護を受けようという意識が相当に強かったのであろう。
■元祖「国際政治学者」は舛添要一
私は、東大の改革に挑戦したが、守旧派に拒まれて失敗し、1989年に西部邁らとともに、大学を去った。しかし糊口を凌ぐ必要があり、友人たちの助けもあって、新聞、雑誌に寄稿したり、テレビやラジオに出演するようになった。そのときに肩書きをどうするかという問題が出てきた。
西部のように、どこかの大学に再就職し、また教授のような肩書きがつけばよいが、私はキャンパスには戻らなかった。そこで、「評論家」、「ジャーナリスト」という案もあったが、海外留学までして外交文書などと格闘してきた研究者の誇りというものもあり、最低限「学者」のレベルは保ちたいと思った。そして、熟慮の末、「国際政治学者」としたのである。
テレビでは、『朝まで生テレビ』、『TVタックル』など多数の番組に出演したが、その度に「国際政治学者」という肩書きが画面に現れ、それが次第に定着していったのである。
松尾貴史は、先日、毎日新聞(1月29日)のコラムで、「『国際政治学者』という肩書を知ったのは、いつごろのことだろうか。時期は判然としないけれども、人物と肩書がリンクしたのは舛添要一氏だったような気がする。・・・(中略)・・・彼の職業は、といえば国際政治学者だと迷うことなく思う」と記している。松尾も私が元祖「国際政治学者」だと認めているのである。
■まともな本も書いていない
学者と名乗る以上は、きちんとした学術研究を論文や著書の形式で公表していることが不可欠である。その上で、一般読者向けに解説文などを書き、広く人々を啓蒙しなければならない。
私は、東大を辞めても、研究は続けたし、国際政治に関する本を年に最低1冊は世に問うていた。その結果、「世界のことはマスゾエに聞け」というタイトルの本まで出たのである。イラクのサダム・フセインが湾岸戦争などで暴れたときにはこの独裁者について、ゴルバチョフがソ連邦の大改革を断行したときにはこの改革者について、論文や本を書いた。
三浦瑠麗の代表作はどの本なのか。テレビに出て発言しても、ワイドショーのコメンテーターとして井戸端会議の類いの世間話を繰り返しているだけだ。しかも、奇をてらって、わざと他人と異なる主張を展開して、目立つことばかりを優先させている。これでは、国際政治学者の風上にも置けないのではないか。