小山田問題でカズレーザーより太田光に分がある理由 SNS・法・当事者性の観点から
小山田圭吾障碍者いじめ問題での論点「SNS」「法」「当事者性」「時代性」を整理する。
■私刑の危うさ
ただし、仮に、主に小学校時代が中心だとしても、小山田の障害者いじめの事実はある。法が裁かない罪が人々に問われる事態は、一方で免れない面もあるだろう。その際にはつまり、SNS炎上によって、罪が裁かれすぎないことが重要。
カズレーザーは、贖罪のあり方を問うたが、実際に小山田の場合でも、小・中時代のいじめを反省し、障害者の友人を高校卒業まで気に掛けていたととることもできるだろう。
障害者施設への寄付が必要など、いったい誰が何の権利で審判をくだすのか。建設的提案ならばよいが糾弾ならば危うい。
■当事者性
そこに古市氏が指摘した「当事者性」の重要性がある。「MeToo運動」でも、当事者が告発するから後からでも問題が明るみに出るのだ。
またここで、事実性すらおぼつかない『Quick Japan』以外の過去の記事を素材に審判を下すことや、「時代の価値観」を問わずに今の価値観で『QJ』含む雑誌記事を批判の参照点とすることの問題性がわかるのではないか。「法の不遡及」原則ともつながるだろう。
■SNSとマスメディア
今回のケースが、いかに危うい素材の上で炎上しているかが窺える。結局、小林の20年以上前のコントから問題部分を掘り返し、新たな解任劇にも至った。
わざわざ過去の作品の一部の問題性を世界に発信し、直接に当事者団体から抗議を受けることにどれほどの公共性があるのだろうか。小山田の件も、国内議論も危ういまま、世界に発信されてしまった。
速報性のマスメディアと集合的沸騰のSNSの結合の審議能力に警戒することこそが、現代の重要な公共性であり、倫理性だろう。
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(文/メディア評論家・宮室 信洋)