戦争中に数千人の命を救った日本人『杉原千畝』が今でもリトアニアで愛される理由

第二次世界大戦中に多くの難民の命をを救った外交官・杉原千畝の物語。

バルト海に面する、ヨーロッパのリトアニア共和国には、第二次世界大戦中に日本の外交官・杉原千畝がドイツの迫害により避難してきた難民の命を救っていた町があります。彼はここでそのためのビザの署名に、一日12時間以上もかけていました。

杉原千畝の世界的に有名な歴史は、日本と遠いリトアニアを永遠にひとつにしました。この物語は、リトアニアの首都になった町カウナスで始まります。

戦間期には日本領事館が置かれた首都の高級地区にある邸宅で杉原は途方もない時間をかけ、官僚的な命令に背いて当時のソビエト連邦から、数千人の命を救いました。

 

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■ソ連による「ペルソナ・ノン・グラータ」通告

杉原千畝は1939年の秋、戦間期の最後にカウナスに到着し、日本の副領事としてリトアニアの首都に正式に着任しました。

ヴィータウタス・マグヌス大学人文科学部歴史学科講師ライナス・ベンクラウスカス博士は、カウナス着任は杉原にとって新しい仕事というだけでなく、見果てぬ夢を追い求めるチャンスだったのだと話します。

「日本が中国満州を占拠すると、満州の傀儡政権が作られました。杉原はこの政権の一員で、鉄道買収のためのソ連と日本の交渉に参加しなければなりませんでした。

 

杉原千畝はロシア語が流暢でしたが、ソ連側はそれを知らなかったため、彼を気にすることなく互いにオープンに話していました。杉原千畝が注意深く聞いたことと、その洞察力のおかげで、日本は買収価格を下げることができました。その間、杉原はロシアの言語と文化に敬服し、ソ連のモスクワで外交官として働くことを夢見ていました。

 

しかし、杉原千畝が仲介役として働く予定であることを東京からモスクワに伝えると、ソ連にとって杉原は『ペルソナ・ノン・グラータ(接受を拒否する外交官)』であると返事が来たのです。そのため、ソ連の首都で働くという夢は叶うことはありませんでした」

 

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■外交だけでない重要な任務を担当

また、リトアニアの首都での杉原の使命は、単なる外交というわけではありませんでした。

「リトアニア及びカウナスでの正式な領事館開設は、国境を越えた関係性、経済貿易等を深める必要があるといった通常の外交上の理由に基づいていました。

 

しかし、忘れないでおきたいことは、それまでもリガでは日本大使館が運営されていて、そこがバルト三国すべてを管轄していたということです。

 

実際のところ、1939年9月、リトアニアは前線に非常に近い中立国として、戦略的好立地にありました。そこで、杉原千畝は良き内偵者として、ソ連の軍事力と挙動に関する情報を集め、この情報をベルリンにある日本の欧州参謀本部に伝える任務を負っていました」

 

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■ビザ発給に一日12~14時間を費やす

杉原がカウナスで働いたのはわずか一年。1940年の中頃、外国使節全員にリトアニアを退去するよう命令が下されました。リトアニアはソ連の重要な構成国となっていたため、独立して外交政策を行うことができなくなっていたのです。

それにも関わらず、一年は彼が歴史に残るには十分な長さでした。1939年、オランダ領事ヤン・ズヴァルテンディクと協力し、ポーランド諜報機関とリトアニア人外交官の助けを借りつつも、日本当局の同意を得ずに、彼は通過ビザの発給を始めました。

「ズヴァルテンディクはポーランドから来たユダヤ人難民から迫られており、彼らは助けを求めていました。カリブ海のキュラソーへのビザ発給に同意した後、その移動には通過ビザも必要であったことから、このオランダ人外交官は日本領事に連絡を取りました。

 

杉原千畝の妻によれば、杉原はこのビザの発給に一日12~14時間をかけていたとのことです。リトアニアにいる日本の正式な代表者として、彼には通過ビザを発給する権利がありましたが、彼が数百、数千のビザを発給するとは誰も思っていませんでした。領事館で杉原千畝は、約2200枚のビザを発給したのです」

 

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■命令違反を犯しつつも人を助ける

杉原は命令に従わず、独断でビザを発給していたと思われていることが多いのですが、ベンクラウスカス博士によれば、ここだけが命令違反を犯していたわけではないと言います。

「ほとんどの国はビザを発給しないか、限られた枚数だけを発給しました。例えば、ヴァイガンタス通りの領事館の数軒隣には、すべて正式な手続きに従い、一日にわずか10枚のビザしか発給しなかったスウェーデン大使館がありました。

 

このシステムは非常に非人道的で官僚主義的でした。扉が開くと、彼らは10枚のビザを発給し、そしてまた扉を閉めるのでした。その間、杉原とズヴァルテンディクは別の道を歩み続け、有効になるかも分からずに必要とされる分だけ多くのビザを発給していました。

 

救われた人たちの証言では、彼らは次のように言っていたそうです。『私たちはビザを発給し、みなさんのご無事を祈ります。ただ、このビザがあなたにとって有効かは保証できません』」

 

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■数千人の命を救ったビザ

ベンクラウスカス博士によると、杉原はあえて規範を破っていました。当時も、今日と同じビザの要件が適用されていたため、金銭的な安定性を証明したり、住む場所があることを証明しなければなりませんでした。しかし、こうした質問はすべて飛ばされ、ビザには署名だけがされていました。

実は、ビザは領事館が閉鎖された後も発給され続け、その後のビザ発給はメトロポリスホテルで行われました。1枚のビザは家族全員に有効であったため、彼はズヴァルテンディクと共に、6千~1万人の命を助けたと推定されます。

大変興味深いことに、杉原は母国日本に戻った後も誰にも話さなかったため、この外交官が約数千人の命を救ったことには誰も気が付きませんでした。しかし、彼が救った人たちが歴史を語り始めたのです。

 

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■リトアニア語の単語をいくつか知っていた

リトアニアの報道機関に話す際、杉原千畝はリトアニアに対する印象を肯定的に話していました。

「この外交官はリトアニアに興味を抱いていました。彼はひとりの日本人として、この国では人がまばらに住んでいて、開けた空間や何もない場所がたくさんあることに大変驚きました。

 

これは日本とは大きく異なり、日本では人々がとても近い距離で暮らしています。杉原はまた、リトアニア語にも言及しました。リトアニア語は非常に難しいけれど、もう少し住んでいれば習得できるだろうと確信したとのことです。

 

彼はすでに標準的な単語をいくつかジャーナリストに言うことができました。それは、リトアニア語のこんにちは、ありがとう、さようなら等です」

 

唯一彼が苦手だった部分をあげるとすると、日本人にとってリトアニアの料理はとても変わっていて、彼の胃には重かったようです。

 

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■杉原千畝の事務所はいまでもミュージアムに

カウナスの日本領事館の建物はアール・デコ様式の新築住宅でした。領事館業務は1階で行われたため、ここは杉原の事務所があった場所です。

この建物は現在、杉原や世界中の名誉ある人たちの功績をたたえるミュージアムになっており、「杉原“命の外交官”基金」によって運営されています。

「ミュージアムでは、来館者がここで利他主義的な雰囲気を本当に感じられるように、すべてを出来るだけ本物らしくすることに努めています。

 

私たちは、建物1階の杉原千畝の事務所の環境と雰囲気を保存しており、彼の物語はそこで語られます。ビザや救われた人たちのリストの原本はありませんが、写しを見ることはできます。ここには助けられた人たちが訪れることもあります。

 

奇跡的に、彼らの両親や祖父母がまさにこの部屋でビザを受け取っていたことが分かることもあり、これこそが今日もここに建っている唯一の理由なのです」

 

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■安倍晋三首相も訪れた

杉原記念館は日本とリトアニア、そしてイスラエルとリトアニアの関係における重要な拠点です。この記念館のそばには日本から持ち込まれた桜の木が育っています。

2017年、スギハラウィークの期間中、日本の会社「塗魂インターナショナル」のボランティアチームがカウナスに集まり、この建物のファサードを塗り直してくれました。2018年、初めてリトアニアを正式訪問する際、日本の安倍晋三首相もここを訪れました。

 

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■アプリでリトアニアへの旅へ

これは戦間期建築プロジェクトのうちの一建築にすぎません。このプロジェクトでは、リトアニアにある多くの戦間期の建築を訪れる、時間の旅にご招待します。

訪れる場所に関するルートやアイデアについては、プロジェクトのサイトhttps://tarpukarioarchitektura.lt/ja/をご覧いただくか、スマホアプリをダウンロードしてください(App StoreまたはGoogle Playからダウンロードできます)。

スマホと一緒にリトアニアへ旅行すれば、これらの建築についてインタラクティブな方法で知ることができます。建築に到着したら、ルートポイントを選んでください。

その場所がかつてどのような様子だったのか見ることができます。スペシャルゲームをダウンロードすれば、旅行中に得た知識をまとめることが可能です。

また、リトアニアにある有名な戦間期の建物に関するマンガを読んだり、クイズに答えたり、戦間期を懐かしんで街並みの塗り絵をすることもできます。 ぜひ試してみてくださいね。

 

参考リンク:戦間期の建築

※カギカッコ内はライナス・ベンクラウスカス博士のコメントから引用

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(寄稿・リトアニア政府観光局/編集・Sirabee編集部