関ヶ原古戦場・笹尾山で「石田三成のすごさ」を再発見

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石田三成という人物が、急激に見直されている。

彼は最終的には歴史の敗者になってしまったが、じつは戦国有数の高度な頭脳を持つ文官だと一般層にも認知されるようになった。そもそも豊臣秀吉は、諸大名から見れば「小作人だった猿」に過ぎない。ではなぜその「猿」が、各国の猛者たちを配下に置くことができたのか。

秀吉の威厳を高めるために、三成が投じた苦労は我々現代人には想像のつかないものかもしれない。


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■嫌われるほど細かい男

石田三成は、何事にも細かく口うるさい性格の男だったのではないか。

もともと小姓だった男だから、たとえば廊下に落ちている糸くず1本も許せない気質ではと察することができる。まるで昼メロドラマの姑のように「隅に埃が溜まってるから掃除をやり直せ」と部下に命令するような人物。

そういう男は、加藤清正や福島正則のような戦働きで手柄を立てようとする武断派とは気が合わない。清正からして見れば「あいつは戦下手のくせに、城の掃除などというくだらないことで媚びを売って」としか映らない。


ところが、先述の通り秀吉は「小作人だった猿」。そのため、ちょっとの隙や汚点があるとそれを材料に諸大名から侮られる可能性が極めて高い。

そうしたことを防ぐためには、三成のようなケチで口うるさく、些細なことで声を上げるような几帳面な男が必要だったのだ。

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■家康を窮地に追い込む

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そんな三成が、徳川家康を討つために兵を挙げた。関ヶ原の決戦の際、三成が陣取ったのは笹尾山である。

実際に関ヶ原へ行って分かるのは、「三成は家康を見下ろしていた」という事実。

しらべぇ取材班は、笹尾山に足を運んだ。ここからはまさに戦場全体を見渡すことができる。家康本陣がどう動いているのかということも、笹尾山にいれば一目瞭然だ。

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もし小早川秀秋らの裏切りがなく、また島津義弘の軍勢も積極的に動いていれば、三成はまさに計算通りの采配を振るうことができたはず。

緻密な性格の男は、常に全体の様子を把握してから行動に移る。几帳面であればあるほど、じつは「全景を見る目」を持っているのだ。

そしてその上で、ミクロな部分の修正に入る。現にこうしたやり方で、一時は西軍が優勢に立っていた。徳川軍の突撃に対し、すぐさま大砲を投入して叩き潰すといった戦術レベルの指示も三成は行っている。


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■関ヶ原の「真価」

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だが、そのような人材は平和な時代にこそ真価を発揮するものだ。

その後成立した徳川幕府が常に欲していたのは、まさに石田三成のような人間。江戸時代は武士が経済的に困窮していたから、ちり紙1枚にかかる費用までも算出できる「細かい男」が重宝された。

そういう者がいなければ、藩が破産してしまうからだ。

だからこそ、関ヶ原の合戦の「真価」をもう一度見直す必要がある。すなわち、「家康が三成を敗北させた出来事」ではなく、「三成が家康を追い込んだ出来事」という見方だ。

文官が、歴戦の猛者に対してあそこまで食い下がることができた。それはなぜかといえば、物事すべてに細かい視点で観察することのできる能力を三成が持っていたからである。

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(取材・文/しらべぇ編集部・澤田真一

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Sirabee編集部

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