【川奈まり子の実話系怪談コラム】彼岸トンネル(後編)【第四十五夜】
2016/08/17 21:00
――声が枯れるまで叫びつづけるうち、やがて高橋さんは身動きがとれないことに気がついた。
四方八方から全身を空気で抑えつけられているかのようだった。しゃがみこんだ姿勢のまま、手足どころか、指一本動かせない。
大きく開いた口から、自分のものとも思えない、甲高い悲鳴だけが湧いて出て、暮れなずむ山に吸い込まれていく。
さきほど突然感じはじめた、何かを激しく拒む気持ちは次第に大きく、耐え難くなってきた。
頭が破裂しそう。心臓が握りつぶされるみたいに苦しい。
「そこで記憶が、少し飛んでるんです」と高橋さんはつぶやいた。
「失神したわけではないと思うんですけど、意識が体から離れるような感じがして、坂道の上の方から、うずくまっている自分に向かって、ADさんが駆けてくるのがわかりました」
高橋さんの叫び声を聞いて、スタッフが慌てて飛んできた。高橋さんの説明には、そのようすを空の上から俯瞰していたかのようなニュアンスがある。
もしかすると、そのとき高橋さんは、一種の霊体離脱状態に陥っていたのかもしれない。
そこから先の出来事は、夢の中の出来事のように飛び飛びにしか憶えていないという。
「ADさんに背負われて山道を下りたはずなんです。でも、そのあたりは記憶が曖昧で、あとで皆から聞かされて知ったことの方が多いんですよ」
その頃流行っていたローライズのジーパンを穿いていたために、おんぶされている間ずっと、お尻の割れ目のギリギリ上まで露出していたこととか、と高橋さんは笑った。
間もなく、監督や出演者など撮影隊もトンネルから引き揚げてきて、ADに背負われた高橋さんを含めて全員で撤収することになった。
麓に停めてあったハイエースに皆、乗り込んだが、高橋さんはそのときのことを憶えていない。目が覚めたら走るハイエースの座席に座っていて、車の窓の外が暗く、すっかり日が沈んでいることがわかった。
「都内に戻る最中で、私たちの車は、関越自動車道を走っているようでした。私が目を覚ましたのを見て、皆が声をかけてくれました。よく眠っていたと言われ、照れくさかったのですが、頭がボーッとして、あまり口をきく気がしませんでした。でも、とくに霊媒師さんは、とても真剣な表情で、私を気遣ってくれました」
トンネルで、高橋さんが最初に叫び声をあげて取り乱したときには呪文を唱えて――おそらく陰陽道の「破邪の法」を使って――彼女を落ち着かせ、祟りではないと言ってくれた、年輩の女性霊媒師である。
平凡な外見だが、なんとなく母親的な頼りがいを感じさせる人だ。こんどもすぐに安心させてくれるのかと思いきや。
「明日、私のところに来なさい。あなたの中にも、何か問題があるのかもしれない」
――あなたの中にも。
畑トンネルに近づいたときから、そこには2人の子供の霊がいると、この霊媒師は言っていた。
自分の中に何かいるのか? 何か、見えたのだろうか?
ゾッとした高橋さんは、翌日は会社を早退して、自由が丘にある霊媒師のオフィスを訪ねた。
するとそこで、霊媒師は高橋さんに不思議なことを語りはじめた。
「本当は、初めて会ったときから、あなたに憑いているものが視えていました。あなたのそばにいる、小さな男の子……まだ幼児です……あなたのお兄さん……そうよね?」
高橋さんの兄が亡くなったのは、彼女が生後8ヶ月のときだった。
物心ついてから両親に聞かされて知ったことだが、兄は公園の滑り台から転落して死んだのだという。他にきょうだいはなく、高橋さんは、ひとりっことして育った。
これまで、ほとんど誰にも話したことがなかった、家族の悲劇だった。
しかし、霊媒師は、兄がいたことはおろか、子供時代の高橋さんの心情まで、的確に言い当てた。
「あなたはきょうだいがいる子が羨ましかった。ご両親は忙しかったから、留守番することが多かったの? ずっと、独りで寂しかったのね?
でも、お兄さんも、大好きなお母さんやお父さん、そして妹と暮らせなくなって、すごく寂しかったのよ。
あなたたち兄妹は、寂しい子供同士。
同じ血、同じ魂を持っていたから、強く引き寄せ合ってしまったんです」
二つの魂は引き合い、寄り添ってきた。彼の世の兄と、此の世の妹とで、20年以上も。
霊媒師の言葉を聞いて、高橋さんは、幼い頃に感じた孤独を胸に蘇らせた。
独りぼっちの子供部屋で膝を抱えていたときのことや何か……。
兄弟や姉妹のいる友だちを妬ましく思ったあの頃、実は、死んだ兄が自分と一緒にいてくれていたのだ。
高橋さんはポツリと言った。「怖いとは思いませんでした」
霊媒師は、高橋さんの兄は成長しておらず、今も幼いままなのだと説いた。
「あのトンネルの子供たちも小さいときに亡くなっているから、歳が近いお兄さんの霊とシンクロしてしまったのだと思います。あの子たちとお兄さんは、幼さだけではなく、寂しがっているところも共通しています。あの子たちも、家族を求めているのよ」
「霊媒師さんは、トンネルにいた子供たちの霊は、私の体を使って、寂しい想いを訴えたかったのだと説明しました。そして、なるべく早く、鎌倉の長谷寺に行って、水子地蔵尊にお参りしてきなさい、と」
「水子」というと、中絶された胎児を思い浮かべる人が多いと思う。
しかし、本来「水子」とは、戒名の下につける居士、大姉などと同じ位号のひとつで、戒名の場合の読み方は「すいじ」。
死産した胎児だけでなく、生後まもなく亡くなった乳児や幼児に対してもつけられる位号だったという。
水子供養が一般的になったのは1970年代以降のことだ。
江戸時代から昭和初期に至るまでは、死産や堕胎の場合も含めて、赤子や乳幼児が死んでも、集落の女性たちが密かに「地蔵講」「地蔵会」などの儀礼を執り行うだけで、墓地には埋葬もされず、葬式があげられることは稀だった。
昔は子供の死亡率が高く、たとえば大正期だと1000人生まれて1年以内に死亡する乳児の数は165・7人。つまり出生した子どもの15%程度が乳幼児のうちに死んだ。
第二次世界大戦の前頃までには徐々に乳幼児も墓地に葬られるようになっていったが、戦後はベビーブームを背景に、中絶件数が急増。
そのことから、次第に水子と言えば堕胎された胎児であるとされるようになり、やがて「水子供養」の必要性が叫ばれるようになったのだ。
本格的な「水子供養ブーム」は、1971年、埼玉県の紫雲山地蔵寺という寺院が1万体の水子地蔵を販売したことがきっかけだと言われている。
紫雲山地蔵寺の初代住職は、元政治評論家で、落慶式はというと昭和46年=1971年。つまり寺が出来ると同時に水子地蔵を販売しはじめたということになる。
しかもそこには時の総理大臣、佐藤栄作が関わっていたとも言われる。
そのことから、水子供養についての仏教的な根拠は薄弱だったであろうことが推察できる。
しかし、それは別段、悪いことだとも思わない。紫雲山地蔵寺の沿革を見ると、気軽に中絶する風潮、ひどくなる一方の道徳の乱れを座視できず、水子供養を行うことにしたと受け取れる言辞が並んでいる。
政府の肝いりで、水子という概念を広めることによって、気軽に堕胎する風潮を改めるために水子供養に特化した寺院が建立されたのかもしれない。
しかしながら、政治的な意図あるいは商業主義にいかに毒されようと、水子供養の心の芯の部分には、古くから女たちが地蔵に託してきた優しい気持ち――純粋に小さな命を尊ぶ祈りが込められていると思う。
日本人のルーツに訴えかけてくる部分が無ければ、こうまで水子供養が広まることはなかったはずだ。
霊媒師のもとを訪ねてから1週間後、高橋さんは父親に付き添われて神奈川県鎌倉市の長谷寺に行き、水子地蔵尊を参拝し、亡き兄を供養した。
長谷寺の水子供養は、石造りの小さな地蔵像を購入し、境内に建立することで始まる。
地蔵像を建てることで、長谷寺と供養の縁を結ぶのである。地蔵像が建った翌朝から、毎日、読経での供養が行われるようになる。
そして、地蔵を建立した者には、ときどき長谷寺へお参りすることが勧められるが、その際には、境内に祀ってある多くの地蔵像の中から、自分の地蔵像を探し出してはならないとされている。
なぜなら、地蔵像は水子の分身ではなく、お地蔵様への感謝と寺院との縁を表しているからだ。従って、祈りは本尊に捧げなければならないわけである。
高橋さんは、長谷寺の地蔵堂で、堂内に安置された地蔵菩薩像に手を合わせた。
ここの地蔵菩薩像は木彫で、子安・繁栄にご利益のある「福壽地蔵」という但し書きがあった。平成15年(2003年)に地蔵堂の再建に伴って造られたといい、時代はついていないものの、光背に至るまで彩色が一切、施されておらず、お地蔵さまらしい清しい美を漂わせている。
地蔵菩薩は、「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」と決意して六道を行脚し、親より先に逝去した幼な子の魂を救う旅を続けたという。
地蔵堂を取り囲むように、水子供養の地蔵像が建っていた。無数にあるように見える。長谷寺の境内の案内には、「千体地蔵」と書かれていたが、実際には千体を優に超えているという。
僧侶は語った。
「天国では、お地蔵さまが親代わりとなって見守ってくださって、お兄さまはたくさんのお友だちと共に幸せに過ごされますので、どうぞご安心ください。
ただしお地蔵さまの慈悲をもってしても、どうしても与えることができないものが1つだけあります。それは、肉親の愛情です。
ですから、お地蔵さまへの感謝と、お兄さまへの愛情を忘れず、大切にいたしましょう」
「千体地蔵」のそばには、「卍池」があり、文字通り卍の形をした池のほとりに、奪衣婆(だつえば)と懸衣爺(けんねおう)の石像が座っていた。
卍は吉祥の印であると同時に、日本・中国においては「紗綾型」と呼ばれる繰り返し模様の一部だ。繰り返すこと、すなわち輪廻――。
長谷寺の卍池の横には「水かけ地蔵」が建てられている。柄杓で水をすくってかけると幸運になれる地蔵だという。
水かけ地蔵は赤子のような大きさで、衣の裾からのぞく爪先が小さく整っているようすが、実に愛らしい――生後8ヶ月の妹を眺める、2歳の兄の眼差しはどんなふうだっただろう?
ちいちゃなちいちゃな手足の指先がほのかに赤く透けながら、花びらよりも薄そうな透明な爪を1つ1つ載せているようす。
桃色の唇。円かな目は、生意気な感じに軽くカールした睫毛に囲まれている――。
奇跡を見るような心もちで、幼い兄は、高橋さんを飽かず眺めたのではなかったか。
そして彼は、誇らしく、ようやく滑れるようになったばかりの滑り台に登った。
(ほら、お兄ちゃんを見てごらん!)
長谷寺のある鎌倉から東京に戻ると、何事もなかったかのような日常が高橋さんを待っていた。
AVメーカーの制作デスクとして、雑駁な業務に追われる日々。
「もうそれからは不思議なことは起こりませんでした……私には」
「それは、高橋さんには何もなかったけれど、他の人には何かあったという意味ですか?」
私が訊ねると、高橋さんはうなずいた。
「私が山道でADさんを待っていたときに、畑トンネルで撮影したスチール写真に、オーブが大量に写っていたんです。それで、広報さんが、私の体験談とその写真を合わせてスポーツ新聞の編集者さんに話したら、面白がられて、一面に記事が掲載されたんですよ。『AVに霊』ってキャッチコピーが付けられて」
スチール写真を撮影したカメラマンが、記事を担当することになった新聞記者に頼まれて、問題のオーブだらけの写真データをCD-Rに焼いて送ったところ、「データが1枚も入っていない」と新聞記者から苦情がくるというオマケつきだったという。
「なぜかCD-Rになかなかデータが書き込めなくて、現スチさん(現場のスチール写真を担当するカメラマン)が何度もやり直したのだという話を、私は広報さんから聞きました。最終的には、ちゃんとデータを送り届けることが出来たんですけどね。
でも、なにも、ADさんにおんぶされて、お尻が見えそうになっている私の写真まで送らなくてもよかったのに……」
「そう言えば、さっきもそんなことをおっしゃってましたね。まさか、その写真も新聞に載っちゃったんですか?」
「ええ、載っちゃいました! ヒドイでしょ? もう何でもアリですよねぇ」
そう言って、高橋さんは、その紙面の写真を貼りつけた当時のブログをスマホで見せてくれた。
2005年8月13日付の『東京スポーツ』の一面だった。
『AVに霊』という大見出しの横に、トンネルの暗がりに光の玉が無数に浮かぶ只中で、AV女優さんがセクシーな肢体を誇示した写真がデカデカと載っている。
それとは別に、記事のずっと下の方に小さな写真があり、よく見るとそこには男性に背負われた若い女性が……。
「ああ! これは、ちょっと恥ずかしい写真ですねぇ」
「まったくもう、こっちは大変な目にあってたっていうのに、現スチさんてば、こんな写真を撮ってたなんて!」
「それはつい、お尻が可愛かったからじゃないですか?」
私がニヤニヤすると、「お尻っていうほど見えてませんよ!」と反論して、高橋さんは吹き出した。
その頃の高橋さんのブログには、こんなことが書かれていた。
≪後日、霊媒師さんから聞いたところによると、その時間帯は一番危険で、私の上には何十もの霊が憑いていたらしい。(略)私、どんだけ体張ったんだ! 「もう東スポ一面を会社に献上できたんだからいつでも成仏できる!」と思いましたね≫
トンネルは、此岸(しがん)と彼岸の境界なのか。
文芸評論家、奥野健男の『素顔の作家たち 現代作家132人』(1978年 集英社刊)という本に、奥野氏がインタビューをした当時、存命だった川端康成本人が自作『雪国』について、「西洋人には理解できないと思う」と語るくだりがある。
そこで川端康成は驚くべきことを言っている。
≪なぜならば、あそこには生きている人間は書いていないのだからと言われた。ぼくは驚いて島村も駒子も葉子も生きている人間ではないかと聞き返すと、川端さんは、あれはみな幽霊だよ、あるいは能に出てくるような生霊ですよと言われた。≫
国境の長いトンネルを抜けると――黄泉の国であったのだ。
そういえば、スタジオジブリのアニメ映画『千と千尋の神隠し』でも、主人公たちはトンネルを抜けて異界に行くではないか?
山はまるごと異界である。
古くから日本では山の坂道ですら魔と出逢う場所だとされるのに、山の胎内に向かうかのごとき隧道が、無事であろうはずがない。
坂。辻。そもそも境界はすべて、危ういのだ。
さらにトンネルは、物理的にも境界そのものだ。
そのうえ、日本にはかつて、「山に女が入ると、女神である山の神の嫉妬に遭い、災いが起こる」という迷信もあった。
以前の労働基準法では、女性のトンネル建設への従事など坑内労働を全面的に禁じていた(旧64条2項)が、これは坑道の工事が危険なためばかりではなく、危険であるからこその「ゲン担ぎ」を重視したためでもあったと言われている。
この規定は、2007年に改正労働基準法が施行され、妊娠中などでなければ女性でも坑道工事に携われるように基準が改められた。
だから今ではトンネル工事に従事する女性もいるそうだが、山とトンネルにまつわる伝説が完全に消えたわけではない。
その証拠に、トンネルの貫通の際に出た石を取り分けておいて、「貫通石(かんつうせき)」と名付け、安産のお守りとして用いる習慣が今も残っている。
貫通石は、石(意思)を貫くことから合格祈願や結婚記念などとしても珍重されていて、トンネルの施工業者が記念品として関係者や地域住民に配布したり販売したりしているという。
国土交通省のWEBサイトによると、日本の道路にあるトンネルの数は全国で10,044ヶ所ある(平成25年4月1日の調査)という。
だったら、さぞかし大量の貫通石が出回っているにちがいないと思って、インターネットで検索してみたら、オークションサイト『ヤフオク』にいくつも出ていて、案の定、数百円から数千円という手頃な価格で取り引きされていた。
ふと見ると、かの有名な「青函トンネル」の貫通石もあって、驚いた。
しかも、たった3000円。
……欲しいなぁ。買っちゃおうかしら?
1988年(昭和63年)に開通してから、2016年(平成28年)にスイスのゴッタルドベーストンネルに抜かれるまで、世界最長を誇った、あの青函トンネルである。
しかし、そういえば、青函トンネルも心霊スポットなのだった。
トンネル掘削時に出水事故が起き、工事関係者34名が殉職した。
彼らを祀るため、青函トンネルの入り口がある青森の竜飛岬に慰霊碑が建てられているというが、幽霊目撃談が絶えないという噂だ。
――そんなことを考えながら、いろいろなトンネルの貫通石をパソコンの画面でつらつらと眺めているうちに、山々の呻き声が聞こえてくるように感じはじめた。
山という山に穴をあけて、どこへでも侵入してしまう、人間の罪深さの前には、幽霊や魔物なんて可愛いものだという気がする。
しかし、人間のやることは所詮、永遠ではなくて、いずれ再び自然に還っていくものなのかもしれない。
一種の廃墟となった、畑トンネルの現在の姿を想えば、それは明らかなことのように思われる。
数々の妖しい都市伝説を生んだ隧道、畑トンネルは、今や、静かに山に呑まれつつあった。
人面犬も幽霊も、人の痕跡と共に薄らいで、そんな噂が存在したことさえ、いつかは忘れさられるのだろう。
未来には、煉瓦もコンクリートも、人も伝説も、全部、土に還る。
それで、いいのだ。
なぜなら、飯能市の夏の緑は美しかったから。
トンネルよ、さらば。
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(文/川奈まり子)
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